『 紅型染め屋 紅若菜さんインタビュー 』
―与論島出身なんですね。私、与論島は沖縄だと思っていました…恥ずかしながら。
そう、鹿児島なんです。結構そう思われていますね。文化的にも似ているかも。
―小さなころからものを作ってらっしゃったんですか?
父が看板屋さんなんです。自称画家なんですけど。絵はほとんど売っていないんですが、油絵を描いていて。
なんでも作っちゃうんです。立体物もオブジェも作っちゃう。ぶっ飛んでいる看板屋ですね。
そのそばでなにか作っていた感じでしたかね。
父がずっと家で仕事しているから、そばで怒られない範囲で何かつくっていました。
看板の切れ端で何か作ったり、油絵を描いたり、父の手伝いをしたり。
―与論での暮らしってのはどんな感じですか?
家から歩いて5分くらいで海なんですよ。
父は5時にはきっちり仕事をやめるので、潮がよければ、シュノーケルで潜って、追い込み漁をしたり。
高校まで与論にいました。で、大学から沖縄に行きました。
―中高は何部だったんですか?
美術部でした。
―やっぱり。でも大学は美術系じゃないんですね。
母が塾の先生をしていて「教育学部に行くなら行かせてやってもいいよ」で、
なりゆきで国語の先生を目指すことに。中高の免許をとるため、与論島で教育実習もしましたよ。
みんないい子たちで。美術でやっていく自信はなかった。でも、琉球大学、ラフな感じなんですよ。
離島で特別講義やってバーベーキューやって単位が取れる、みたいな。自由でした。
―紅型と出合ったのはそのころですか?
女子寮に入っていたのですが、美術科の友達がいたんですよね。沖縄の美術でどんどん面白いものを作ってきて。「うらやましいなあ、いいなあ」と思って。「紅型かわいいなあ!」と思って。
周囲見たら紅型のTシャツ着てる人たくさんいるし。それが紅型との出合いです。
でも、紅型を仕事にしようとはまったく思わなかったですね。教員免許取って卒業しました。
―では、卒業後は?
就職しないでアルバイト。
でもそれを見かねた父から「なんかしろ」「そうだよね」
「沖縄にいるんだからいろんな工芸見てもいいんじゃない」「なるほどね!」。
そこでまた紅型を思い出したんですよ。
で、ちょうど、友達が「うちの近くに紅型工房あるよ」っていうから行ってみたら
「なんだ君は」「なにがやりたいんだ」「じゃあ、明日から来るといいな」って。体験もせずに。
―唐突に始まっちゃったんですね。
意外な展開でしたね。お給料の話も聞かずに。もらえるかも払うんだかもわからないのに。
―飛び込んだ工房での修業はどうでしたか?
知らないことばかりで楽しかった。
この染料の中にこれを入れてはいけない、とか全く知識なかったので、
毎日めちゃくちゃ怒られていましたけどね。先生は伝統工芸士。
工房は先生がいて、先輩がいて、一番多い時で7.8人くらいですかね。
…着物と帯を染められるのは先輩で、布って最少は汚れが付いているので、煮なきゃいけないんですけど、
下っ端はぐつぐつ煮えるたらいをひたすらかき回して。クーラーもなく汗ダラダラ。過酷でした。
どんどん痩せましたね。そしたら先輩と2人だけになっちゃって。。。
「先輩どうします」「いや俺辞めるよ」「じゃあ、お先に…」って、1年で辞めることに。ちょっと無理だなあと。作業自体は楽しかったんですけどね。1年の間に帯着物までさわらせてもらったので、
あと型彫りとかは自分で研究をしたり、勉強できるなあ。って。
―修行って厳しいんですね。
そうですね、給料も5万だし、バイト禁止だし、朝7時半から夜7時半までやって、
夜は紅型教室があるときは手伝いがあって。生活が成り立たなかったです。
―でも紅型自体はいやにならなかったんですか?
ならなかったですね。見えてきた。
沖縄は若い作家さんがたくさんいて、Tシャツとかにして卸したりすれば生活できるなと、売り込みに。
まずは国際通りのレンタルボックスに行きました。そこに置いていたら、他のお店の方が見に来てくれて、
次第に置いてくれるお店が増えて行って。
―この時期、インディーズバンドのTシャツやCDジャケット作ったりされていますね。
友達に助けてもらって。大学時代、バンドサークルだったんです。
―どんなバンドだったんですか?
J-POP。ジュディマリくらいから始めて、だんだん、オリジナルになっていく感じ。
そして卒業してから独立した友達とかのバンドとかのCDジャケットとかTシャツとか手掛けて。
―自分が手掛けたものを使ってくれた人を見たときはどうでしたか?
うれしかったですよ。
でも、うーん、実はまだ全然知らない人を街で、ってのは、見かけたことないんですよねー。
―見かけたらどうします?
見かけたらひとりで「ひゃー!」って言って、つぶやくくらいですかね。声は…掛けられるかなー?
―そのほか、夏休みの紅型体験の先生などもやっているのですよね。
これもまた、友達に助けてもらって。バンドの先輩に琉球新報の知り合いがいてとか。
夏休みの子どものための体験教室の人を探していて、引き受けたんです。
小学生相手のむずかしさとかありましたけど。帰っちゃう子とかいるし。
でも紅型教室は楽しいなと思いましたね。
「あー!楽しかった」って帰ってくれる子もいて。何年もやらせてもらいました。
―なるほど。生活はほんとうに紅型一本で?
バイトもやっていました。バイト先の沖縄そば屋さんで沖縄の雑誌見て「若菜もいつか載るといいねー」
「どうしたら載るんですかねー」なんて言っていたんですけど。
でもひとつのことにしか集中できないのでやめることにしました。
とにかくお金なくて、風邪ひいても薬買えなくて、せっぱつまって父に「薬代送ってください」って。
貧乏でしたね。
―それでも紅型をやめなかったのは、なぜですか?
紅型を見てくれる人が、ちゃんといて「若菜の紅型いいよねー」って言ってくれたから。
友達とか。続けて行けば生活もすこしはできるようになるかな、
Tシャツだけでなくほかのものも染めてみたいなーとか考えてみたりと、作ることが楽しかった。
―ちなみに、ブランド名を今の名前に変更したのは?
それまでの名前がありがちだったので。紅型している若菜、で紅和菜。に名前変更。
―そっちのほうが若菜さん「らしい」ですよね。…で、ちょっと紅型の基礎知識についてお聞きしますが、紅型の柄って自由なんですか?
古典柄、琉球王国時代に確立されたのもあるんですけど、オリジナルの型は戦後になってからできてきました。
今は結構自由に。初めて見た紅型も自由なやつでしたね。
だからか、オリジナルで自由なデザインができる作家さんは素敵だと思っていましたね。
―いまから考えて、沖縄時代ってどんな時代でしたか?
とりあえず貧乏で…。でも、孤独ではなかったです。ちゃんと見てくれる人がいた、続けていくにあたって。
友達とか、委託先の方だったり、大学時代の恩師とか、親も応援してくれたりして…。
友達には助けられまくりでしたね、そこがスタート。一人ではとてもできない。
―ご家族はどう若菜さんを見てらっしゃったんでしょう?
家族の反対はなかったですね。父は自由人ですし。
もともとは福島出身で、流れ流れて与論に来た人なので。与論に帰ってこいとも言われなかったですね。
―帰ろうとも思わなかった?
紅型は沖縄のものなので沖縄にいたほうが勉強できるかなって。
―本当に紅型に惚れこんじゃったんですかね?
そうなんですかね?!
―嫌になることはなかったんですか。
嫌になること…Tシャツを100枚染めるとかは嫌だったですね。
新しい柄作りたくても、追われちゃったり、委託先と「今までの柄じゃなく新しい柄で売れるか」
とかやり取りする難しさもあったり。でも、一人の時間が好きなので。
工房辞めた時も自分は「工房タイプ」ではないと思ったんですね。
工房だと、先生の型紙を使ってひたすら染めたりお教室の準備したり、降ってくる仕事をこなさなきゃいけない。それを考えたら生活は苦しいけどこのほうがいいなと。
―それで2007年に結婚を機に神奈川に引っ越された。移るにあたってどう思いました?
紅型をできるのかなー、と、やっていっていいのかなー、と。
―やっていっていいのか、というのは。
沖縄本島でやってないと琉球紅型といわない、とか、那覇より北だと違う、とか、いろいろあるみたいなんです。紅型組合とかも入ってなかったけど離れますし…。
―ご主人が神奈川の方だったんですか?
主人は札幌の人。北と南なんですよ。大学が同じだったんです。
―ああ、そういうことですか。でも引っ越すにあたって相当葛藤はあったでしょう?
沖縄の作家さんじゃなくなるなら…ということで取引をやめた委託先もあったり、
紅型をどういうふうに関東で売っていけばいいか、商品展開も変えなきゃいけなかったので不安でしたね。
―それでも思い切ったのは?
結婚するにはこの人以外にはいない、これを逃してまで沖縄にいる理由はないなと。
応援してくれていたんですよ。
SEなので納品書とかHPとかも作ってくれて。なら、続けていけるかも!と。
お店探しとかも一緒に行ってくれましたし。
―それは素敵ですね。で、その翌年にはLUPOPOに出合ってる、と。
下北沢のレンタルボックスで仲良くなった作家さんに
「三軒茶屋にLUPOPOさんっていう超かわいいお店ができるよ」って言われて、
「行きます!行きます!」とその場で。
―その場の流れでってのが、多いんですかね?直観には従うタイプ?
そうですね、失敗も多いんですけどねー。
―関東の最初の印象はどうでしたか?
関東。まず、電車に乗れなくて。最初は友達もいなくて。引きこもっていました。
でもやることがあったからよかったです。
新しい型紙を作ったり。主人が髑髏柄が好きで、言われて作ってみたら売れたり。
でも、友達とデザフェスとか出てみて「紅型って沖縄のだよね」って。
意外と紅型が知られていて。それで、もしかしたらいけるかもなあって。
それに、初めて対面で自分の作ったものの反応をダイレクトに感じたんですよね。楽しかったです。
ああそうなんだーって。
ディスプレイのものを外国の人が英語で「わたしはそれがいい」って言って、買っていってくれたり。
あと、ものづくりの友達ができたのは大きかったですね。
主人とも創作の話はするんですが、時々けんかになるんですよ。
彼は作っていないから、効率を求める部分があったりして。「こうしたら?」「いやいやそれはー!」とか。
そういうことものづくりの人と話すと「そういうことあるよねー」って。
あと、タグのつけかたとか、どうしたら作品がステキに見えるかとか語ったりします。
―お教室も始めましたね。
LUPOPOさんで紅型教室。本格的にやったのはここが初めてで。
最初は友達に来てもらったんですけど、それからはみなさん集まってくれて。
―教室での生徒さんの反応はどうでしたか?
「沖縄に行かないとできないと思ってた!」と言われると嬉しいですね。
難しいのは、沖縄の紅型について聞かれること。
沖縄の情報が疎くなっているので、そのときは沖縄の友達に聞いたりします。
―お教室はどんどんその後、増えていってらっしゃいますが、どうですか?
やってみてわかってくることがあります。説明の仕方とか。いかにうまく伝えるか考えたり。
あと、教室をやることで「ああ、私こうやって筆を動かしていたんだ」とか、
無意識にやっていたことが分かったり。「何分くらい浸けるんですか」とか言われて、
あらためて勉強し直したり。
―そんな若菜さんの作品のオリジナリティ、ってなんだとお考えですか?または、そこがいい!っていわれたこととか。
デザインが古典過ぎなくていいって言われることがありなす。古典過ぎなくって色がきつくない。
―それは現代柄であるというよりかは、生活の中でつかいやすいということでしょうかね?
普段使いしてほしいってのはありますね。紅型着物っていうと手に入らないイメージがあるので。
あまり高すぎなくて、生活の中に紅型があるのっていいなーって思うので。
―生活の中の紅型と言えば、いま、お着物を素敵に着こなしてらっしゃいますけど、その紅型の半襟がまた素敵で。
ありがとうございます。
着物は…あこがれはあったんですが、手の届かないものだったんですね。
それが、LUPOPOさんでの紅型教室のときに着物でいらしたお客さまに、
リサイクルの着物を教えてもらって「まじっすか!」って。
それに、体験もトートバッグくらいしかなかったので「半襟とかいいんじゃない?」って言われて、
教室開かせてもらったんですよね。
そうなると、それにあったものを作れるいい型紙は…というような視点を持てて。
ラインで柄が出たときに、こうするといいなとか。
その上、自分の紅型を日常使いしてほしいというのと、リサイクル着物というのが一致したんですよ。
―なるほど、それは幸せな一致ですよね。紅型の半襟、自分で作ったんです、って言うと驚かれますか?
「えーっ!」ってなってくれると嬉しいですよね。
「これどうしたの」「自分で染めたんですよ~」「あら、あなた、そんな仕事しているの!」「そうなんですよ!」なんて見知らぬおばあさんと話すきっかけになったりして。
―今、若菜さんの一日の流れってどんな感じですか?
ずっと染めたり縫ったりメールしたり…ブログ書いたり…してますね。
―もし、紅型が生活から無くなったら…どうします?
紅型が無くなったら…危険ですね!なにをしたらいいかわからない。これがないと困りますね。
ものを見るときに「これ型紙にいけるんじゃないか」「この花かわいいんじゃないか」
という視点が持てたのが大きいんですよ。自分の基準があるみたいな。
旅行とかしても、私、ほわーっと見てしまうんですけど、染め物をやってるぞ、型紙つくるぞって、のがあると、アジアとか行っても「この色合いいいよね」「バックもありか―」とそういう視点を持てたので。
―自分の視点があるってのはいいですよね。それは無くなったらたしかに危険かも。
本当、無くなったらどうやって過ごそう…。
―いま、ものづくりが基盤にある生活を送っていて、どうですか?
楽しいですよ。今、他の作家さんとコラボしたりしているんですけど。
NOKOさんって、福岡に住んでいる方なんですけど、FB上で写真交換しながら作りました。
昔、工房の近くでカフェやっていた方なんですよね。工房の帰りに寄るのが癒しだったんです。
いつか一緒に何かやれるといいなと秘かに思っていたので、ようやく声をかけることができて。
いい意味で手芸感のあるバックが作りかったんですよね、普通に持ち歩ける、おすましの着物用じゃなくて。
結果、想像以上のものができて。「さすがでござんす!」。
―夢がかないましたね。ものを介して人とつながって、人とつながってものができて。じゃあ、いまも孤独じゃない?
いま、日々目論んでいますね。コラボできないかなとかいろいろ考えて、まとまったら「どうですか」って?
自分一人だと限界があるけど、別のプロフェッショナルの人に頼むとまた自分の作ったものが新しく生まれ変わる。
(NOKOさんとのコラボバッグ)
―では、これから挑戦したいことってありますか?
ダイビングを始めて、海の中が見えてきたんですよね。
だから、海のデザインをいろんな型紙で作ってみたいです。あと与論の植物とか。
―今、若菜さんにとって与論ってどういう存在ですか?
与論はすうーっと帰れて楽しいところ。帰ると近所のみなさんが郷土料理作ってくださったり。
「今度紅型教室やったら行くから!」って言ってくれて。今度与論でやるんですけど。
―凱旋ですね。ちなみに、ものづくりの発端でもあるお父さんはどうですか?
面白がっていてくれるみたいです。
ブログ時々見て「あのデザインはいいな」とか言ってくれます。
でもいつか大きな額に入れて飾れるような大作作ってくれって言われています。
―いろんな人に囲まれて、今の若菜さんがありますね。では最後にお客さんに何か伝えたいことがあったら。
そうですねー。いっぱい、一緒にお出かけしてください。そうしてくれると嬉しいです。
―ではもうひとつ、同じものづくりをしてらっしゃる作家さんに伝えたいこと、あります?
うーん…なんでしょねー…。ものづくりってずっとひとりでやっていますよね、
孤独といえばそうですけど、その時間も大切で楽しいし、外に出てお客さんと会うのも大切で楽しいし。
いろいろやることいっぱいあるけど、大変だけど、続けてやっていくと絶対何かが見える。
だから、紅型にかかわって10年とかなるんですけど、本当に紅型やめなくてよかったなあって。
(2013.7.29 LUPOPO cafe&galleryにて・聞き手 ツルカワヨシコ)
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